何かを伝えるということ

以前から聞いているPodcastで、「表出」と「表現」の違い、を話していて、おお、と腑に落ちた。表出とはむき出しの感情をそのまま出しただけ、表現は目的意識を持ってそれを伝える(ようとする)こと、という解釈をした。

腑に落ちたというのは、自分の核になる「字を書くこと」「ピアノを弾くこと」について考えたときに、この二つが自分の中でどうあったのか、どういう変化をして今に至ったのかをなんとなく理解できたような気がしたからだ。どちらも好きで好きで仕方がないことなのに、どちらも思うように表現する=他人に思いを伝える技術がない(できなかった)。それでもそこに拘るからには、上手くできない原因を確かめておきたいと思っていたところに、冒頭の話が降ってきてすこんと嵌まった。今回はそんな、自分が勝手に腑に落ちた話。

 

昔は、自己主張したいときに専ら字を書いていた。文章、だなどとはおこがましくて到底言えそうにない文字の羅列をひたすら書き連ねていた。どこかで見たような主人公とヒロインが出てくる話だとか、トレンディドラマを架空の学園生活に落とし込んだような話だとか。でも、その話の根には、稚拙ながらも、何かしらの伝えたいものが横たわっていたと思う。それは十代特有の孤独感とか、何者かになりたいけれど慣れた輪を抜け出せないジレンマとか、少し歪んだ性とか愛とか。

今はもう、主張したいほどの強い思いを抱くこともあまりなくなってしまった。だから、こうして文章を書いていても、それはあの頃のような(稚拙ではあったけれども)「表現」にまで昇華できるほどのものではなくて、だからただの「表出」に留まってしまうのだと思う。そしてそれが、ブログで長文を書くという行為よりも数段安易なTwitterFacebookなどのSNSへの短文投稿ばかりになってしまう原因なのだろう。

 
その一方で、四歳の頃から弾いていたピアノは、多感な時期には「弾かなくてはならない」というものになっていた。レベルが高すぎる周囲に合わせて、同じものを求められるのが苦痛だった。自分が求める立ち位置はここにはないと思っていた。
小さい頃は、「エリーゼのために」を弾くのが最終目標で、発表会のたびに着実にレベルアップしていく演奏曲がうれしくて、何時間も練習していた。譜面のとおりに指が動く、音が鳴る、それが楽しかった。
でも、年齢が上がるにつれて、「表現」を求められるようになって、つらくなった。だって、まずベートーベンがエリーゼの何を思ってあの曲を作ったのか、全然理解できなかった。愛する人のために書いた曲がこんなに悲しい曲なの? もっと華やかで愛を感じる曲であるべきじゃない? 自分がそう思っているのに、先生の求める「表現」はできないなと無意識のうちに悟っていた。そんなことが続いて、私は開き直って譜面どおりに指を動かすことだけをゴールに再設定した。でも、圧倒的に練習量が追いつかなくなりいつまでもゴールに到達しないことがつらくなって、結局ピアノをやめてしまった。
でも、歳を重ねた今になってまたピアノを弾きたくなっている。というか、自己流で少しずつ弾いている。そして、弾いているうちに、あの頃は全くわからなかった「表現」が少しだけ見えるようになった。エリーゼがどんな女だったのかは知らないし、二人がどんな関係だったのかも、ベートーベンが何を考えていたのかも知る由はないけれど、とりあえずベートーベンはしあわせじゃなかったのだ。
 
 
と、自分の核になる部分において、大人になって失ったもの、逆に手に入れたもの、それらが「表出」と「表現」で繋がっていたことに改めて気がついたというお話。
まあ、文章を書くことにしても、ピアノを弾くことにしても、あの頃ひたすら続けていたことが今、少しでも自分の実になっているのだとしたら、それはやっぱりあの頃の自分のおかげなので、そこは少しだけ称えてあげていいのかも知れない。
そう思うけれど、少なくとも文章を書くことに関しては、一年後もこのブログをちゃんと続けられていたら褒めてあげる、ということにしよう。