熱量

大切な友人が悲しみ、憤っていた。組織と、その構成員に対する、どこへとも向けることのできないやるせない怒りだった。

偶然にも、わたしも同じ悲しみを抱えていたので、彼女の悲しみと怒りはとてもよくわかってしまった。それと同時に、酷く冷めた気持ちで、この状況に対して自分を鼓舞するためのプロパガンダを思い出してもいた。

 

数年前、大切な人たちとともに何度も繰り返した言葉。

「できる人が、できるときに、できることをやる」

それは、各々の責任を引き出すのと同時に、「あの人は仕方ない」を自分達の間で正当化するための呪詛だった。

 

取り組むべき課題に対して、誰しもが同じ熱量で臨めるのかというとそんなことはなくて、結果に求めるものも違えば、過程における思惑も違う。

要は、努力なんてものが報われる時代はもうとっくに終焉を迎えていて、努力したい人は、自分の中でその事実を反芻し褒め称えいかに明日への活力とするか、でしかなくなってしまっているのだ、と思うのだ。

ただ、割り切れない思いはしつこく付きまとう。被害者意識に陥れば、もう周囲への信頼など地を這うようになる。

それを回避するために、わたしは呪詛をあたかも素敵な魔法であるかのように口にし続けた。自分自身のために。そして今日は、同じように彼女へ魔法をかけた。彼女にこの悲しい呪詛が効くようにと願いながら、

 

きっと世の中にはこの呪詛が溢れている。