光り輝く神への祈り

絵描きの二人がいる。

その二人は美しい。

とても、とても。

二人の世界では、どちらも、今、自分がいる一秒だけを、振り切れそうなほど目一杯生きている。

スピッツのロビンソンに出てきそうな二人だ。

 

わたしは、二人が羨ましくて仕方なかった。

泣いて、地団駄を踏んで、持っていたものをすべて放り出して、わたしにもそれがほしいと空に強請った。

それを聞いた神はわたしにそれを与えたけれど、その先は教えなかった。

わたしは、今、またひとりだ。

 

 

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過去の下書きより

 

Camellia II (temporary)

人と人が出会うのには、必ず、何かしらの意味があるのだと思う。

薄く窓を開けて、早朝の青白い空気がようやく少し和らいできたのを指先で確かめる。出てきた時にはまだ空は暗くて、幹線道路の橙灯が流れていくのが少し眩しかった。薄明を過ぎた今は、朝陽が当たるおかげで車内も暖かい。
「で、会ってみてどうだったの?」
「きれいなひとでした」
少し考えてそう答えると、相手はハンドルを回しながらくつくつと笑った。彼女と会っていたことは、昨日、進行形で伝えていた。そもそも彼女を知ったのも、この人がきっかけだ。顔が広くて、いつも何か面白いものを見つけてくるこの人を、彼女は県立図書館のイベントで知り合ったのだと嬉しそうに話してくれた。硝子のように透き通る声だった。
後部座席に置いた荷物の中に、別れ際に彼女から貰った手土産があるのを思い出す。
「手作りのお菓子をいただきました」
「なるほど、食べよう」
「はい、みんなで」

黒緑の髪を肩下で揺らしながら少し得意そうにはにかんだ彼女の愛らしさを思い出して、笑みがこぼれる。f:id:riechr:20160903233438j:plain

 

playlist

雪の舞う季節からは程遠いけれど、この季節、いつもすれ違うのは確かだと、シャッフルしたプレイリストから流れた「粉雪」を聴いて思う。

冬の歌はわかりやすく切ないものが多い。夏の夕陽がそこらじゅうにきらきらした粒を降らせているのを眺めながら、じきにやってくる冷たい空気の気配を感じとって、わたしは過ぎ行く季節に想いを馳せる。

back numberを聴くにはまだ早い。

 

熱量

大切な友人が悲しみ、憤っていた。組織と、その構成員に対する、どこへとも向けることのできないやるせない怒りだった。

偶然にも、わたしも同じ悲しみを抱えていたので、彼女の悲しみと怒りはとてもよくわかってしまった。それと同時に、酷く冷めた気持ちで、この状況に対して自分を鼓舞するためのプロパガンダを思い出してもいた。

 

数年前、大切な人たちとともに何度も繰り返した言葉。

「できる人が、できるときに、できることをやる」

それは、各々の責任を引き出すのと同時に、「あの人は仕方ない」を自分達の間で正当化するための呪詛だった。

 

取り組むべき課題に対して、誰しもが同じ熱量で臨めるのかというとそんなことはなくて、結果に求めるものも違えば、過程における思惑も違う。

要は、努力なんてものが報われる時代はもうとっくに終焉を迎えていて、努力したい人は、自分の中でその事実を反芻し褒め称えいかに明日への活力とするか、でしかなくなってしまっているのだ、と思うのだ。

ただ、割り切れない思いはしつこく付きまとう。被害者意識に陥れば、もう周囲への信頼など地を這うようになる。

それを回避するために、わたしは呪詛をあたかも素敵な魔法であるかのように口にし続けた。自分自身のために。そして今日は、同じように彼女へ魔法をかけた。彼女にこの悲しい呪詛が効くようにと願いながら、

 

きっと世の中にはこの呪詛が溢れている。

 

忘却

見知らぬ人を殺してしまう夢を見て飛び起きた。どうやら寝る前に癖でつけてしまった暖房が暑かったらしい。
エアコンを止めて、再びまどろみの中にもぐりこむ。目を閉じて、ふわふわとした感覚にたゆたううちに、急に「記憶と記憶のインデックスが紐付いていない」と思った。このところ、次から次へすぐ忘れていく。昨日起こった出来事も、何を食べたのかも、「昨日」という単位では思い出せない。例えば料理を見て、「あ、これは昨夜も食べた」とか、事象や物事単位では覚えているのだけど、何かトリガーがないと思い出せない。
その「いつ」に紐付かないのはなぜなのか。その理由がきっと、「いつ」というインデックスを作っていないから、なのだ。だから、事象そのものは覚えていても、それが「いつ」のことなのかは思い出せない。
なるほど、とひとり納得した。
でもそれだって、事象そのものの方を忘れていないなんて言い切れない。現に、何か大事な物がじわじわと侵食されている気がするのだ。毎日何かを詰め込みすぎているのか、或いは本気で病気にでも罹っているのか。こんなことを思ったことすら、きっと朝目覚めた時にはうっすらとしか残っていない。「人は悲しいぐらい忘れていく生きもの」とミスチルも歌っていた。昔教わった先生も「記憶より記録」と言っていた。だから、こうして記録して、「いつ」も「なに」も忘れないように刻み込むのだ。
これでこの、深夜の思考内容は忘れない。ブログに書いたことは忘れるかも知れないけど。

ANNIVERSARY op.2

年明けという時期もあって、誕生日はいつも、過去と未来を同時に見渡すような心持ちで迎えるのだけど、今年ほど、ここが分岐点になるのだと感じる日はない。理由は、まだぼんやりしすぎていて自分でもわからない。でも、確実に何かが変わった。
前日からフライングでお祝いメッセージをもらったり、日付変更線を踏んだ瞬間におめでとうと言ってもらえたり、夜が明けたらお祝いの言葉をたくさんもらえたり。とりあえず幸せすぎて死ぬかもしれない。いや、生きるけど。

これは、昨年の誕生日にFacebookに投稿した記事だ。今思えば、昨年が満月にアンカリングしていたのは、誕生日が満月だったことも大きく関係していたのかもしれない。
ユーミンのANNIVERSARYも、未だに心の深いところに染み込んでいく感じがしている。不思議な感覚だ。
ANNIVERSARY
2015年、最初の満月の今日。おかげさまで、無事にまたひとつ、歳を重ねることができました。
たくさんのお祝いのことばをいただいて、心からうれしく、贅沢なひとときだなぁ、と、ここ最近めっきり豊麗線の深くなった頬をさらに緩ませた一日でした。本当にありがとうございます。
去年は華やかで楽しい日々の裏側で、自分を見失うことの多い年でした。傷ついて、一人泣いて、そして忙しさに身を投じ、結果、文字どおりこころをなくす日々が多かったように思います。でも、新年を迎えると同時に、どこかに落としてきてしまった大切なものたちがかえってきたような気がしました。少し前には当たり前だった、ごく普通の、笑顔の自分に戻れたような。
今年はのんびり、めえめえ鳴きながら草食系で過ごしていきたいと思います。
水のようにゆるゆると。空気のようにふわふわしながら。
少しでもみがるになりたくて、髪をばっさり切りました。
今抱いている、やわらかくて、自由で、ほんの少し孤独な気持ちをずっと保ったまま歩いていけたらいいなと思います。
松任谷由美の「ANNIVERSARY」という楽曲がありますが、その一節が最近お気に入りです。
「ありふれた朝でも わたしには記念日」
これから一年を、どうか平穏に、笑顔で歩いていけますように。
そう、ありふれた朝でも、わたしには記念日なんだ。

ありがとう。
また一年、一緒に歩いて行こう。

dreamin', I was dreamin'

初夢、と呼ぶには全く相応しくない悪夢を見て飛び起きた。手の甲がヒリヒリする。どうやら眠っている間にかきむしったらしい。エアコンの効き過ぎた部屋はひどく乾燥していて、外界に通じる呼吸器官が、どこもかしこもからからに乾いているのがとても不快だった。
気怠いまま半身を起こして掃き出し窓のカーテンの端を少しだけ捲ると、空が薄明るくなりはじめているところだった。この季節だと大体六時前だ。休日に起きる時間としてはまだだいぶ早い。それでも、少なくとも悪夢が、この部屋の外にまで及んでいないとわかったことは大きな救いだった。
カーテンを戻して、身を再び毛布の温もりの中に閉じ込める。この暑苦しい部屋においては非常に虚しい防具だったけれど、身を包むものが何もないよりはましだ。
意識を手放そうとしたところで、ふと、ある考えが浮かんだ。そうだ、靴を洗おう。洗面所の足元に置きっぱなしになっている運動靴。大晦日の夜に気がついたけど、もう既に眠い時分だからという理由で洗濯を諦めたそれを綺麗に洗ってしまえば、悪夢も一緒に流れていくに違いない。
善は急げとばかりに、スリッパに足を通し、やや控えめな足音で寝室を抜け出す。そっと扉を閉めた後は、もう形振り構わずだ。洗面所の電気スイッチを入れて、足元の靴を拾い上げる。薄汚れたそれを洗面台に投げ込んで、そのまま蛇口を思い切り捻った。
しばらく見つめている間に、水が、溜まった。動かない水は靴の汚れを吸い出して澱んでいく。灰色に、灰色に。渦巻いて、薄まって、広がっていく。ズックブラシに固形石鹸を擦りつけて、必死に運動靴を洗った。汚れが落ちない箇所は何度も擦って、石鹸をまた少し擦りつけて、また擦って、手が痺れるまでひたすらそれを繰り返す。濁った泡を洗い流して、それが綺麗になったことを確かめて、少し安心する。だがまだ気は抜けない。だってもう片方が残っている。
もう片方も同じように執拗に洗い流し、水を止めたところで、はたと我に返る。そこには運動靴の右足分と左足分両方がきちんとした姿でそこにあって、自信ありげに並んでいた。踵の少し潰れたそれが、何もない日常を思い起こさせる。大丈夫、何も怖いことなんて無い。そう言っているようにも思えて、何だか可笑しくなってしまい、ため息はいささか笑みを含んだものになってしまった。こういうのを苦笑いと言うのだろう。
水の滴る靴をベランダの手すりに吊るして、東の空を見上げる。すっかり明るくなった空は、いつも起き出す時間帯のそれだ。そう、ただの夢。また日常の洪水に紛れて、薄まって、広がって、いつか消えてしまう。
今日は不本意な非日常の、終わりの始まりだ。そう、もう少しで終わりだ。だから、せめてもう少しだけ眠ろう。箱根駅伝が走り出すまで。今度はどんな夢も見ないように。